遷延性意識障害になった家族と生きる

 荻田 恵理

いつもと変わらない日常。仕事に子育てにと忙しい日々。この当たり前だった生活が一変したのは今から6年前のことでした。突然、大切な家族が事故に遭い一命を取りとめるも遷延性意識障害になりました。起こってしまったことはしかたなく、ここからどう向き合い、生きていくのかが私たち家族に与えられた課題となりました。

 1本の電話から時間が止まる
「ご主人が交通事故に遭いました。病院へ来れますか」自宅の電話が夜に鳴り、警察官に告げられた日から我が家の日常はなくなりました。瞬間に「ダメかもしれない」と思って子どもたちを連れて病院へ向かった日のことは、今でも鮮明に覚えています。
主人は雑誌の編集長として、私は救命病棟看護師として、子ども3人(2歳・8歳・11歳)を育てながら働いていた頃でした。
病院へ着くと警察官が待っていて、主人の荷物を渡され、駆けつけた時には意識はなかったと聞きました。医師からの病状説明でやっと主人に会えた時には「これが生きてる最後かもしれない」と思い子どもたちも一緒に会わせてもらいました。
とにかく、会社や友人など関係先全てに主人の携帯を片手に電話とメールをし続けました。「交通事故に遭い意識不明、明日から当分行けない」と。私も仕事はその日から状態が安定するまでと思い休みました。子どもたちは周りの人には知られたくないという希望があり翌日から学校へ行きました。

 「あいまいな喪失」を知る
「残念ですが脳損傷が激しく、元の状態には戻れないでしょう。よくて遷延性意識障害です」と医師からの告知。
「命は救われた」と思ったところから、闘いが始まりました。心配する子どもたちは、ICUの面会を許可されず、父親の様子が分からない状態での不安な日々を送りました。次々と治療の決断だけは求められ、同意書にサインする日々。気が休まることはありません。面会に行く私に、看護師から「食べていますか?眠れていますか?」と聞かれるものの、心に届く言葉はなく空返事。そのなかでも心の支えとなったのは、主人を心配する友人たちでした。毎日現状報告しながら、やりきれない思いを吐露し続けました。それでも必ずきちんと向き合う姿勢で、丁寧に返事をいただいたことが唯一の救いでした。
当時は、自宅にいると主人との思い出を振り返っては涙が溢れ、病院へ行き、主人の姿を見るとホッとする。そんな2軸の時間を生きていたように思います。面会の合間や眠れぬ夜にインターネットで色々調べてたどり着いた結論は「あいまいな喪失」という、はっきり喪失していない不確実な状態をあらわす言葉でした。二度と思いを通わせることができない主人と生きるとは、喪失のはざまの中にいるのだと知ったのです。

 「在宅介護」という選択
「お父さんは家がいい」。父親の状態をすべて伝えたとき、子どもたちからそう言われました。
あたりまえの答えかもしれませんが、子どもたちからの心強い一言が私の迷いを払拭し、覚悟を決めさせてくれました。もちろん、看取ることも覚悟の上で準備に取りかかりました。
子どもたちには、被害者支援のカウンセリングに通ってもらいました。また、いざという時に後悔しないように、医療ケアも子どもへ教えました。制度の申請では、随分と苦労しました。「家族の会わかば」に出会ってからは、先ゆく人たちに助けられました。
多くのサポートのおかげで、1年8ヶ月かけて在宅介護を開始できました。どんな姿でも家に主人がいてくれることで2つの時間軸が1つになり、家族団らんを手に入れました。ものすごく贅沢なことでした。我が家でいつもケアができることは、気持ちを楽にしてくれました。在宅介護は家族だけでは回りません。連携ノートをつくり、多職種が連携しやすい環境づくりと、ディスカッションの繰り返し。取り組みを進めた結果、遷延性意識障害から最小意識状態までの回復に移行したのでした。

 「レジリエンス」を手に入れる
「あなたはものすごく生きている感じがする」。最近、お世話になったベビーシッターさんから言われました。
在宅介護4年目になりました。いままで順調だったわけではありません。突然呼吸が止まって「ダメかもしれない」と思う瞬間は3度経験しました。
未だに何もない日は1日たりとありませんが、家族団らんを楽しみ、笑い飛ばせる余裕も出てきました。安心できない日々は続きますが、いまの私のモットーは「できることをできるときにできるだけ」です。こうした経験から気に留まったことを調べる習慣には、磨きがかかりました。困ったときは、すぐに相談して一人で抱え込みません。同じような境遇の方の相談に、応じられる力も備わりました。仕事では、経験が役立ち無駄がなくなりました。
残念なことは時々ありますが、残念と思える心の余裕がうれしいです。主人のおかげで、多くの人と出会い、多くのことを学び続けています。心の持ち方ひとつで、こんなにも豊かになれる境地にいることは、体験したものだけが知り得る世界だと思います。(想像を絶する世界なので、誰にも同じ思いは味わってはもらいたくありませんけれど)毎日の積み重ねがグリーフケアであり、生きる原動力になっています。

先日も看護師ライター講座を学び、すてきな出会いをしました。
「ひとりじゃない」家族介護者の手と手を繋ぎ合わせていく看護師、というキャッチコピーをつけて頂きました。
理解され、認められることはうれしいこと。背中を押してくれる人がいる限り、誰かに寄り添える人でありたいと思います。


荻田 恵理(おぎた えり)
「家族の会わかば」の相談窓口担当。
5人家族。(重度障害者の主人、高専3年、中学3年、小学3年)
看護師歴27年 総合病院でオールラウンダー。皮膚・排泄・摂食嚥下・ポジショニングに強い。
好きな詩は「病者の祈り」
特技は人を前向きにすること。特徴はソーシャルサポートに恵まれていること。
今気になっていることは発達障害とエフェクチュエーション。
困っている人を助けることが天職の看護師。



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 バリアをこえて さらに輝け 命の炎(ほむら)!!

 横山 明美

 ある時、「横山さんもねぶたに行ってみない?」と知人に声をかけられ、予てから聞いていた「ケア付き青森ねぶたじょっぱり隊」に参加することにしました。以前その体験談を聞いたり、「わかば」で読んだりした覚えはあるものの、まさか私たちが行けることになろうとは考えてもみませんでした。勧め方がうまかったのと、在宅介護にも少し慣れてきた、という自負があったからかも知れませんが、一番の理由は親や子供の介護に携わって、楽しみを先延ばししてはいけないということに気がついたからです。例え、病気でなくとも、明日を元気に迎えられるという保証はありません。だから今までのように、いつか又なんて暢気なことをいっていたら、将来その日はもう訪れないかも知れないと思いました。もとより1999年に受傷した長女の香は元気な時は旅行好きでしたし、主人もすぐに乗り気になってくれました。そして香が通所しているケアセンター「ふらっと」の和田施設長や、同じ利用者の6家族も一緒とあって心強い旅となりました。
 8月2日、先ず羽田までの送迎はいつもの福祉タクシーを利用しました。飛行機内は狭いのでJALの職員の協力もあり、専用小型車いすで乗り移り、多少の窮屈さはあるものの、皆何とか収まりました。途中、体調を崩す方もなく青森空港に着くと、「じょっぱり隊」の若者たちが歓迎の横断幕、元気な声と拍手で出迎えてくださっていました。歓迎レセプションでは県庁ねぶた囃子の演奏があった模様です。私たちはそれには間に合いませんでしたが、夕食会は全て心のこもった手料理が運ばれてきました。ちゃんちゃん焼きやほたて汁、ちらし寿しなど、数々の郷土料理はとてもおいしく、また嚥下障がい者には食べやすいように形態や彩りに工夫が呈され、有難くとても嬉しかったです。やがて夜になり雨が降り始めてしまいましたが、私たちはテントに守られてねぶたを鑑賞しました。花火の号砲とともに始まった青森の夜を熱く焦がす勇壮なねぶた、壮厳な太鼓や笛の音色、情熱的なハネト(踊り手)の大群衆に圧倒され、見ている私たちの心も踊りだします。ラッセラー、ラッセラー、ラッセラッセ、ラッセラー、ねぶたを支える精悍な男衆も、きれいな衣装をまとった女衆も一体となって、青森の夜がねぶたに焼き尽くされています。香も目を輝かせて見入っていました。そんな祭りを見た後、香たちはボランティアの方にお風呂に入れていただき、私たちはホテルに送っていただきました。
 翌3日も、朝から嚥下障がい用の朝食を運んでいただいたり、あれやこれやのお気遣いが続き、県民福祉プラザにおいて結団式です。太鼓演奏、手踊りの後、オープニングでは山上進氏の津軽三味線、尺八、笛の演奏があり、音色がホール一杯に響き渡りました。津軽の人は「ホントじょんずだなあ」としびれました。その後紙屋先生の開会宣言、関係者ご挨拶と続き、更に今回の参加者全員をスライドで名前と顔を紹介してくださいました。会場を改め昼食会でも心のこもった食べきれないほどの料理、手踊りの実演、そして全参加者または家族のテーブルスピーチがあり、各々の人となりが伝わり、和やかな雰囲気を作ってくださいました。その後、私たちはホールに戻ってハネトの踊り方の練習をし、香たちはバイタルチェックをしてもらいました。そして本人はもとより、その家族、付き添い人全員もハネトの衣装に着替え、記念撮影をしました。沢山の鈴をつけると一層気分も高揚してきました。
 さあ、これでいよいよ本番です。19時、地元「菱友会」のねぶたのハネト隊に入っていざ出陣!祭りの炎、命の炎、さらに輝け!最初は照れていた主人もいつの間にか大乗りで跳ねだしています。香もはちきれんばかりの満面の笑みです。私も車いすを押しながら跳ねてます。道中、沿道からの拍手と「ガンバレ!」の声援に我に返って思わずホロリ。ラッセラー、ラッセラー、ラッセラッセ、ラッセラー!こんな熱い体験は何年ぶりでしょう?生憎、全行程約4キロの内の残り三分の一位の所で雨脚が強くなり私たちは無念のリタイヤをしましたが、それでも熱いねぶたの夜を十分に満喫することができました。
 翌4日は観光物産館アスパムで私がお土産を買う間も香を看ていてくださり、最後は青森空港まで見送りに来てくださった心優しい津軽のボランティアの方々に、後ろ髪をひかれる思いでしたが、「有難う」と別れを告げました。あっという間の3日間でした。
 この催しは、筑波大学名誉教授、紙屋克子先生率いる250名からなるボランティアの方々の誠意によって支えられています。また、「じょっぱり隊」を唯一快く受け入れてくださった青森菱友会(三菱関係の企業の集まり)の心意気も忘れてはいけないと思いました。13回目を迎えた今夏は7都道府県から30名の障がい者、高齢者の参加でした。ケア付のこのような催しが他の土地でも行われたらどんなに素晴らしいことでしょう。青森菱友会の会長が言っています。「この程度のことができなければだめじゃないか。その気になればできることなのだから。へこたれたことを言ってはいけない。社会には変えていかなければならないことはたくさんある」と。 「バリアをこえて さらに輝け 命の炎(ほむら)」これが今回のテーマです。人々の意識にこそバリアフリーをと願いつつ、そんな日の来ることを祈りたいと思います。来年の夏には皆さんも跳ねてみませんか?色々な楽しみを目標にして今日も健康維持に努めましょう。


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 母から子への手紙

「香(かおり)へ 」 横山 明美

 これは長くて悪い夢であって欲しかった。一年毎に以前のあなたは薄くなり、今のあなたが濃くなってきて、一体どっちが本当のあなたなのか判らなくなるから
不思議です。眼は生まれたばかりの赤ん坊のようにきれいで、その頃に戻ってしまったのかと思う程です。お母さんはこの歳になって、あなたを一から育て
直さねばならないのでしょうか。
二十世紀も残り一日となったあの日の夜、真に悪夢のような事故で、あなたは危うく自分の命をもカウントダウンされそうになりましたね。信号無視のトラック
が、幸せだったあなたを植物のように動けない体にかえてしまってから六年が経ちました。かつて福祉を学んであなたに与えられた物は、卒業証書ではなく、
一級の障がい者手帳でした。でもお母さんは信じています。やがてあなたが、自分の力で動き出す日がくることを。

(事務局注)
上のすばらしい文章は、福島県の猪苗代町絆づくり実行委員会他主催、日本郵政公社他後援の、第4回心の手紙コンテスト「母から子への手紙 あなたに伝えたい想いがある」に横山さんが、交通事故によって不幸にして突然21歳で遷延性意識障がい者にされてしまったお嬢さんへの気持ちを書いて応募したところ、1572通もの応募の中から大賞(1編)に選ばれたものです。わかば便り31号に掲載されたものを横山さんの御厚意により転載しました。


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 大切な人がある日突然「遷延性意識障がい者」になったら・・・

「死」についてもそうですが、普段から真剣に考える人はいないでしょう。
ただ、大切な人もしくは自分自身が年齢・体調を問わず何時そうなってもおかしくはない事で、それなのに、そうなった時の対応策が今の日本では不完全です。
医療が発達して死亡率は低下しています。しかしその中に「遷延性意識障がい」になられた方も含まれてのことです。母が倒れ、管理人はまず「生きてさえいてくれれば」と思いました。自発呼吸ができるようになり、人工呼吸器が外れ一安心したのも束の間、病院から入院期間は最長3ヶ月なので転院するか在宅に移行するか決断を迫られました(病気・交通事故等状況によって入院先が異なります)。
家族としては回復のため治療やリハビリを受けさせてやりたいと思うのに、なかなか受け入れ先がみつかりません。少しでも長く側にいてやりたいと思いながら病院探しに時間を費やしました。
なかには「申し訳ないがウチは無理だけど、こちらに聞いてみれば」と親切な方もいらっしゃいました。が、一日何十軒とかける電話の多くは冷たい事務的な対応でした。
管理人は善意の細い、細い綱渡りの連続でした。「ひとりじゃない」と思えるのは勇気づけられるし、本当にありがたい事です。わかばの会報誌は心の支えでした。
「命は助かった、なのに・・・」では悲しすぎます。「生きてて良かった」と遷延性意識障がい者・家族が心から思えて安心して生活できるよう、
行政機関や社会に呼びかけていかなければなりません。


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 「遷延性意識障害」ってご存知ですか?

最近ではようやく、新聞・テレビ等で見かけるようになったこの言葉。
私は母が倒れて初めて知りました。
事故や病気によって心肺停止状態になり一定時間脳に酸素が供給されず脳にダメージを受ける。
定義・原因等詳細については本ホームページにも記載していますのでご覧下さい。
「蘇生後脳症」「低酸素脳症」と医師によっては診断書に記載することもあります。情報をパソコンで調べるのに一本化できず、随分時間を費やした記憶があります。
世間一般にはまだまだ残念ながら「植物状態」「植物人間」と説明する方が話が伝わりやすいのが現状です。私はこの言葉に嫌悪感を持っています。
言葉や意思を伝える事が困難になったり、できなくなったりしても、植物じゃ無い。人間です。
短時間お見舞いに来るぐらいじゃわからないけど、嫌な顔をしたり、嬉しい顔をしたり健常者より微弱ではありますが心のひだが見えます。
いつか「植物・・・」と言わずとも、わかってもらえる日が来るのを心から願っています。


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